ほしのやしろ TOMOKO

ほしのやしろはあなたが本来のあなたに還る場所。

ほっと一息できる場を提供します。

相談/ヒーリング/天然石

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自分の喜びに対しての構え方を捉える

10年ほど前、スピ活の場で出会った人がありました。あるリーブスの陰陽師さんの開催してくださった場で、付いてくれている高次元の存在や、必要なメッセージを降ろしてくださったり、ワークを行ってくださる、そんな素敵な場でした。何回か開催してくださったので、私は毎回学びのためにも、自分を知るということをしたくて、出席させてもらってました。にぎやかな街の一歩入ったところの、ひっそりと森の中のような場所での集まりでした。10人に満たないその集まりの中で、何回かご一緒した方がいました。その方とは顔も背格好も似てなかったと思うのですが、とても魂が似ているのか、部屋に入るときに、集まった方々から、同じ人が入ってきたのかと思ったとか、何度か間違えられたのです。ワークやメッセージもシェアリングのような形で行われたのですが、その方に降ろされたメッセージが今でも忘れられないでいます。「鳥の声や、そよそよと吹く風を楽しむだけで充分」え?それだけ?と、その人も聞き返していて、それだけすればいいと陰陽師の先生は仰ってたんですね。たぶんその方は忙しく働かれていて、心に余裕を持たずに懸命に過ごされていたのだと思います。自分にとって喜びを見出すことって、案外シンプルなことなのかもしれません。それを聞かせていただいてから、私も自分の中に余裕をもって生活したいと思うようになりました。今は時間が余れば、隙間を埋めるように動くより、隙間時間で休むようにしています。それは初めの方は難しかったです。時間がもったいないと感じてしまうからでした。その時、私は体を動かすようにと言われましたが、SVでいまだに言われます、、笑主に陰陽師で体を動かすことが私は好きみたいですが喜びのまま出来てないみたいです。陰陽師で風を捉えて舞うことが、私の喜びに繋がっています。感じていてもどこかで恐れている自分もいて。自分でもしてますが、人様の手を借りたりして、封印を解除し続けています。人間って一筋縄ではいかないですね。自分自身の喜びを見出すことって、かなりの抵抗があるんだなと、今だから思える今日この頃です。自分の喜びを見出していけることは、生きる原動力と豊かさに繋がります。自分の喜びを受け入れていくことって、自分軸の確立でもあるんですよね。すなわち、覚醒、自分の喜びに目覚めることで、生きやすくなる。世界が変わっていく。今から思い返しても、そのスピ活がとても楽しかったですね。陰陽師って何だろう、陰陽師ってすごい!と思っていましたが、自分自身が覚醒してから、あまり実感はなく。私は私らしく、私も含めてお一人お一人の、本当の豊かさへの追及を、楽しむ場として提供していきたいなと改めて思いました。覚醒するのは楽しいことだけではないのですが、結果的に喜びに繋がるので、自分自身が理解できる楽しさというものも提供することを目的に、ここを開いています。

自分の喜びに赦しを出すことで

私は自分の喜びがわからずに生きてきました。幼少期、かなりの天真爛漫だったことから、常識を重んじるように育てられた経緯もあり、自分の気持ちというのは、反発心だけが育っていったと言っても過言ではないと思います。なので、何が自分にとって大切なのかわからない、何がしたいのかわからないという時期が長かったのです。楽しいと思って笑っていても、何かが違う。仕事を頑張っていても、何かが違う。私のやりたいことはこれではない、という思いがずっと腹の底でうごめいていたのです。今から思えば、自分の喜びというものを感じたのは、美しい石の結晶に出会った時でした。眺めれば眺めるほど美しく、見つめるたびに表情が変わる。その中に生命を見出すというか、石というものにも意識があるのではないかと思った瞬間でもありました。もともと新しいことを始めるのは大好きでしたが、「美しいものを見つめる、手に入れることが罪」だと思い込んでいる自分にも気付いたのです。何かその未知のものに出会った時のワクワクが、それを赦すきっかけを作ってくれました。美しいものを手に入れてはいけない、綺麗なものを意識してはいけない、そんな呪いのような思いが私の世界を狭めていました。しかし、世界は見れば見るほど美しい。自分にわずかな赦しを始めた直後から、空の美しさに惹かれて写真を撮り始めました。空の次は緑。石はなかなか美しさをうまく写真に収められないので、直に見ることが一番ですね。その点でも人に似ているなと思います。人も直に会えるのが一番美しさがわかりますからね。話は逸れましたが、自分の中は思ったよりいろいろ制限しているものです。本当に見たいものを見て生きたいと今は意識して思います。人でも石でも、生き生きしている様子は美しい。それを見ることが私の喜びなのだと思います。

聖人を目指すことは

スピリチュアルに目覚めた時、私は聖人になろうとしました。聖人というものの表面を見たまま、「良い人」になろうとしました。しかし、聖人になろうとすればするほど、自分の中の闇が見えてきたのです。ひと生まる時、天より神と鬼を授けて魂魄(たましい)となすこれは、古文、ホツマツタヱの一文を抜粋したものです。魂=精神・天に宿るもの魄=肉体・地に属する生命力私たちは地上に降りてくるとき、自分の中でさえバラバラに分かれて「人間」として生まれてきます。それはたぶん、光と闇の配分をうまく組み合わせて、新たな創造へ導くためだと私は思っています。随分と緻密なパズルゲームです。闇も認識しなければ、変化することもないのです。しかし、闇が変化すれば、光の色や強さも変わるということではないかとも思います。自分の中の闇を享受することが、自分の持つ光を享受できる唯一の道ではないかと思います。そのために私たちは今生きているのではないか。自分軸という話に戻ると、それぞれが持ち合わせている光と闇は独自なものになりますので、多種多様に変化可能であるのです。万華鏡のように。持っているパーツで様々な紋様が描けるのです。聖人になろうと出家するような行為は、昔の修行と言われるものに近いですね。そうではなく、自分の持ち合わせているパーツをどう組み合わせていけるかが、今は重要だと思うのです。ただ、自分の軸(何がやりたいか、何を目指すのか)がわからない状態だと、そのパーツはまるで部屋に散らかっているように、汚く、いらないものだと感じるのと同じです。目的というものか、あるいは希望のようなものを芽生えさせるように、当方では自分軸を整えていくワークを提供しています。自分というものをまるっと受け入れるには時間がかかります。前世では、悟りを開けない自分に対して苛立ち、しかし、全てをゆるすという境地に達するまでには長いこと時間がかかりました。人に対して、良いことだと思ってした行為も、相手を傷つけていたのかもと、悩むこともあります。しかし、その自分の辿ってきた軌跡をすべて糧にして、今後に生かしていきたいと思うとともに、ここにご縁をくださるみなさまの軌跡を同じように最善の糧にしていけるお手伝いができればと思っております。聖人を目指す時代ではなく、自分自身を見出す時代です。それが、結果的に、聖人に近づくという軌跡をたどるのだと思うのです。

あなたにもできる世界貢献とは

かたくなに自分を曲げないという人はある意味軸があると思いますが、ここでいう自分軸とは少し違います。ここでいう自分軸を持っている人というのは紛れもない自分として生きていること、というと漠然としていますが、自分の喜びに対して責任を持って生きている人。誰から言われたわけでもなく、ただただ自分の純粋な気持ちに沿って生きている人。この社会生活の中で「そんなことできるわけない」と思って我慢していませんか。自分の気持ちを大切にするって案外単純なことで、「疲れたな」と思ったら、1分でもいいので、目をつぶって、「私疲れているね」と、自分で自分をねぎらってみる。「あの人に嫌なこと言われた」と思ったら、同様に、「嫌な気持ちになっているね」「どうして嫌な気持ちになったのかな?」など、その気持ちに1分でも寄り添ってみる。「好きだな」と思ったら、人に知られたくないとか、恥ずかしいと思っても「好きなんだね」と自分は認めてあげる。自己受容です。これは、結果的に体の健康にも繋がってきます。私自身は自分の気持ちを振り払うように、なかったように過ごしてきてしまって、結果、体にその負の蓄積が悲鳴を上げたという経緯があります。見ないふりをしていても、自分は常に「感じて」いるのです。自分で自分をわかってほしいから、体が悲鳴(痛みなど)としてサインを出す。心と体は連携しています。もう少しいうと、体に宿る魂も、そしてそれを内包する地球や宇宙も連携しているのです。あなたが自分の軸を整えて、本当の自分の愛の方向性を定めて行けるなら、間違いなく世界貢献になるのです。世界貢献というと捉えにくい方も多いと思いますが、あなたが整うことで、お子さんなど家族の心身の健康にも繋がってくるのです。私たちはそれぞれお役目が違うので、それぞれの人間として生きていますが、「チーム地球」であり、共同体なのです。家族のためと言って、自分を置き去りにして、いつも疲れているのは、本当に家族のためになっているのでしょうか。私自身も家族のためと苦労して頑張ってきたことも、自分が心から喜び楽しんだことも、同じだけ子供に受け継がれていくような気がします。だからこそ、多くの人にもそれぞれが楽しんで生きるということを繋がていくといいのではないかなと心から思います。生きていることは普通にしていても悩みは尽きないし、相当大変。そんな中で、自分軸を見出していくことは、自分の愛の方向性や喜びを見出すことなので、非常に大切であると思います。世の中は戦争も起きていて、混乱が出ています。感情に流されずに自分の深い部分の「愛」、つまり自分軸を覚醒することは、この広い世界の小さな1点かもしれませんが、宇宙に広がっていく喜びのフラクタルの源泉にもなりうると思っています。

自分を変えていくのに日々できること

私は子供のころから優柔不断で、何事もパッとは決められない人でした。それが相手への優しさでもあると勘違いもしていました。自分軸の確立は、自分が強く、相手を打ち負かすことではありません。自分というものの正体が「わかる」状態で物事を判断できるので、対する相手に対しても「わかろうとする」ことが起こるのだと思っています。そのために無用な争いも起こりません。自分軸というものに気付いてくると、自分というものの正体は、誰からも搾取されることもないことがわかります。また、自分も相手の何かを搾取することで何かが変わることでもないとわかってきます。自分軸というものは、自分の純粋な愛の部分から成り立っていて、その愛の人によっての違いというものが認識できるようになるからかもしれません。自分の体のパーツでいえば、純粋な自分自身はハートチャクラです。宇宙からの叡智や自分の持つ叡智が降りて認識してくるのはクラウンチャクラ。私の場合は第3の目のチャクラで判断することをしておりませんでした。叡智などをソーラプレクサスまで降ろしてきて、自分のテリトリーで考えるということを長いことしていたので、受け入れられないことがあるとおなかを壊しました。おかげで、優柔不断だったのは、表面上のことであったこともわかりました。腹の中では自分の判断はついているのに、それを実行しない、できない(親の気持ちをくむ)ということを長いことやってきたのです。時には相手を思いやる判断も必要だと思いますが、それは、自分が腹の底からそうしたいと思った時だけにすることが大切だと思います。なぜ私たちは違う人間としてここに存在しているのかは、それぞれの役割があるからに他ならず、私たち一人一人の独自な愛の判断力が未来を創っていけるからだと思います。何かを判断するということは、毎回、破壊と創造をしていて、最善な判断をするたびに、自分の世界が少しずつ良い方向へ変わっていくのだと思います。変わらないことを続けていっていると思っていても、どんどん変わっていくこの世の中ですので、自分が変えていきたい方へ舵を切っていくのは、今がチャンス!だと思うのです。

新たなサイクルを自分から始める

2026年は自己の覚醒の年だと言われています。覚醒という定義は非常に難しく、どの状態を覚醒というかに囚われる必要もないと思っています。私自身、振り返ってみて、あの時期のあの出来事は覚醒を促すためだったのだと、何年も後に気付いたりしています。覚醒したからと言って、聖人になるわけではありませんが。「より自分らしくなる」と言った方が近いかもしれません。自分のいる場所を受容でき、なおかつ自分らしくいれる事を肯定していることを覚醒という方がわかりやすいかもしれません。覚醒の段階は何段階もあり、人によってある程度突然あらゆることに覚醒することもあれば、少しずついろんなことに気付いていく覚醒のしかたもあると思います。私は天空レムリアの時代にこの地球に魅せられてやってきたのですが、この地上に発展する生命の多様性は、ディセンションの歴史であるとともに、今始まっているアセンションの様々な可能性とも捉えることができると感じています。この地球のアイデンティティを私たち人間がそれぞれに捉えることができた時、そこからアセンションの道が開けていくのだと思います。この「私としての地球での生き方を捉える」ということが、覚醒であると私は思います。環境破壊、食糧難、絶滅危惧種の救済、戦争、社会的不和、家庭内不和、自己嫌悪に至るまでの一連のループは中心を変えるだけで、自己愛自己救済、家庭的調和、平和的豊かさ、種の保存、助け合い、生態系の保全、環境的調和へ変わってくるものだとも思っています。この一連の流れは地球というサイクルの中にあり、私たちも地球の一部なので地球という一つの単位の中のサイクルのループの中で起こっているものです。今までと違うところは、地球はアセンションを始めていて、今までとサイクルの中心が変化してきています。それに伴い、私たちもより自分の中心に照準を合わせていくように促されています。アセンションとは、上昇という言葉ですが、より自分の精度、純度を増していくことを指しているのだとも思います。それは、つまり、覚醒するということだとも思うのです。自分は何者か。自分は何をやっていきたいのか。自分の中心から何を花開いていくのか?自分という存在は自分でいる以上、独自なものです。独自な自分自身を見つけられたなら、これから先は万事OK。未来への準備をお互いに進めていきましょう。

野菜を食べる意味?

写真は、家庭菜園で私が育てているお野菜です。一粒万倍という言葉があるけれど 今、スーパーに並んでいる野菜のほとんどはF1種といった父種と母種の「見た目の良さと作り易さ重視」で掛け合わせた一代限りの種類。 生殖能力が異常なものを掛け合わせたものも多く、 決して味の良さ重視ではなく、栽培のし易さと運ぶための頑丈さなどを強化したもの。 種も採れません。 採れても全く違うものが出来てしまう。 一粒万倍にはならないのです。 F1種の良いところは、品質が均一で収穫が早く育て易いところ。 市場で売られている種もほぼF1種。 収量が均一なので、不作が少なく、70億人の食糧を支えている大切な食糧であるのが現実です。 ただ、種は採れないから、農家は毎年買わなくてはいけない。 これは、農家のためと謳い、大量生産を促し、種苗業者(と言うと語弊がありますが)にお金が入る仕組みにもなっています。 写真は私が育てている野菜で、古来からある在来種、固定種、原種の大根や蕪。(ロマネスコはF1)。固定腫や在来種は 同じ時期に蒔いても、収穫量は個々によってまちまち。 一度に大量に育たないので家庭菜園にはうてつけで、見た目は不揃いだけれど味が濃くて美味しい。 見ての通り、原種や固定種は色も鮮やかなものが多く、また、食味が良いので虫も動物も好むのです。 固定種は多様性のある種で、その土地に合うように数年で進化する種を生みます。採取できた種は次の時期も蒔ける。 正に、一粒万倍になるのです。 一粒が万倍になる野菜が本来普通のはずなのに、 種が出来ない野菜を日常に食していることをどれだけの人が知っているのだろうと思います。 F1種は今の人口過多の時代を乗り切るためのものでもあるから、必須であろうとも思うけれど。 けれど……本当に未来に必要かは疑問。 小麦粉もグルテンが問題になっているが、原種小麦であればグルテンフリーなのだから。 100年後ぐらいに目に見えてわかってくるかもしれないけれど、大切なことは目に見えにくい。 本当の一粒万倍とはなんだろう?しかし、生殖機能を狂わされた野菜のF1種は人間を支える。 その個体たちは個性はなく、クローンのようなもの。 間違いなく人間という生命を救うその種の生き方が、 かつて巫女として生きた自分と重なった。 神の言葉のみを降ろすだけに生きる人生。 自由は許されない。 自分を殺すように生きる。 個性も許されない。 でもそれは、 個性を引き出したいと思う気持ち、 オリジナリティを見付けたい気持ちなど、 生きる希望を最大限に引き出すキッカケに過ぎないかもしれないと。 今の私がそうだからだ。 気付くと、オリジナリティを追求している。 F1野菜は揃って当たり前。 欠陥品は 規格から外れて、他とは違うこと。 良く規格外品として扱われるものは、操作され、限られた中で個性を発揮しようとした逸材なのではないか?とも思うのです。規格外、それは、本当に欠陥か?ということに焦点を置きたいのです。 生物的な観点からみれば、それは素晴らしい進化かもしれないし、希望かもしれない。 人も植物も地球上に生きている同士。生き方はそんなに変わらないと思うのです。 今の私は、F1野菜に似ていないだろうかと思う。 支配から抜ける可能性を私たちは秘めている。 おそらく無限に。 ほぼ、F1種を食べて生きている私たちは、規格外に育つ強さと、生殖機能(個々の可能性)を思い出すために食べているのかもしれないとも思うのです。

あなたの中の観音を目覚めさせる?

大好きな長谷寺縁起絵巻。 観音像が出来るまでの絵巻。 それは室町時代から鎌倉時代に描かれたもの。 この長谷寺の観音様は大楠で出来ているそうです。 私は楠とご縁があり、観音像が関東に流れ着いた日も私の誕生日と同じなので、この観音像に興味を持ちました。 もともとは、人に厄災をもたらす霊木であったものが、 人を癒し、救う、観音像になった と書いてあります。 これ、陰陽統合の話しですよね。 人間にも当てはめられると思うのです。 どんな物事にも表と裏がある。 私の実家にも大きな楠がありましたが、伐採されてしまいました。 その楠の精霊が30年以上も居座り、怪奇現象を起こしていたことがありました。その怪奇現象が楠の精霊の仕業だとわかったのは私が覚醒が始まってスピリチュアルエマージェンシーの真っ只中にいる時でしたから、前世の能力で精霊を近くの神社に移動させることで、その現象は落ち着きました。 そのことを思い起こすと、絵巻の話しは、この楠というより、その精霊が起こしていた怪奇現象であるのではないかな?とも思ったわけです。 精霊って何だろうと思うと思いますが、ここでいう楠の精霊は、私の解釈では、多少語弊はありますが、木の霊体と表現するとわかりやすいかと思います。実家の楠は伐採したあと、木本体が無くなったあとも、根があるかのように土はえぐれていき、道路が陥没するというのを繰り返していたのです。 要するに、霊体の地縛というところでしょうか。 長谷の観音になった楠は三次元の「入れ物」が残っていたために、精霊は「観音」として生まれ変わることができ、しかも、人を癒している。 普通、木の精霊は対象の木がなくなると自然といなくなるものですが、地縛霊化するというのはどういうことなのか? それは、精霊がたまたま人間の集合無意識の部分と共振して地縛霊のように消えることが出来ないのだと思います。ライトワークをしていると感じるのですが、人間の念は思うよりパワフルで、その土地に染み付いていることも多く、それをカバーするように(癒すように)植物が生えていることもあるからです。逆に捉えると、それだけ人間の念がパワフルなら、本来の「自然」🟰「神」を越えることが出来るという人間としての私たちは、良くも悪くも現実を変えていく事が出来るということかなと思ったりもします。何にしても、捉え方で自由にも窮屈になりえるのが私たちなのでしょうね。 楠が観音像になったという物語は、

「災いをもたらすものが、救いへと転じる」

という象徴です。  これは特別な話ではなく、
私たち一人ひとりの中でも起こり得る変容です。 怒りは境界線を守る力へ。
恐れは慎重さへ。 強すぎるエネルギーは、使命へ。 陰を排除するのではなく、
陰を抱きしめて統合する。  あなたの中で、
まだ観音になっていない楠はありますか? 扱いづらい才能。 誤解されてきた個性。 封じてきた力。  それらは、視点が変わったとき、
癒しの象徴へと転じるかもしれません。 私が行っている「感情フラクタルの解体ワーク」は、 自分が扱いきれない感情を解放し、再創造するものです。陰陽師の技も使いますので、調和を図る統合ワークになっています。以前ご紹介していたワークよりお受けになりやすいのではないかと思います。実際、以前のバージョンでこのワークを3回以上お受けいただいた方で、新しい能力が使えるようになったというフィードバックもいただいています。 あなた自身が
自分の中の「素材」に気づき、
それをどう生かすかを選び直すための“場”を整えることを大切に、お手伝いさせていただきます。

自分を知るツール

若い頃の私は、占いが好きでありながら、どこかで軽く見ていました。 「占いは統計学」とよく言われますが、何をどう積み重ねたものなのか深く考えたこともありませんでした。  数ある占術の中でも、もっとも身近なのは星占いでしょう。 屋号に“ほし”とつけ、星や宇宙に惹かれてきたはずなのに、私は実は占星術をきちんと見ようとしていなかったのです。  少し学び始めて感じたのは、占星術は「当たる・当たらない」を楽しむものではなく、  生まれ持った資質の取り扱い説明書のようなものなのではないか、ということでした。楽しんでもいいんですけれどね。 人にはそれぞれ、自然と使いやすい力と、扱いにくい力、などの傾向があります。 そのため、無意識の癖や、陥りやすいパターンもあります。  占星術でいう星の配置は、それらを象徴的に示していると捉えることができます。  それは運命の固定ではなく、

「どう使うか?」という問いを与えてくれる視点です。 私自身のホロスコープを読み解いていく中で気づいたのは、  自分には強いエネルギーがある一方で、それをむやみに使わない環境を選んで生きてきた、ということでした。  エネルギーは力です。 水は命を支えますが、制御を失えば洪水になります。 強さは美点であると同時に、扱い方を学ぶ必要があるものでもあります。 また、苦手とされる配置を見たとき、私は意外な発見をしました。  それは、母との関係の中で、その分野が鍛えられていたということです。  当時は悲しみや怒りとして受け止めていた出来事が、

今振り返ると、自分の未熟な部分を育てるための経験でもありました。 占星術は未来を決めつけるものではなく、

過去の意味を再解釈するための道具にもなり得る。 「当たらない」と感じる部分があるとしたら、

それはすでに乗り越えてきた証かもしれません。 星は、私たちの代わりに人生を動かすものではありません。 けれども、古代の人々が星を頼りに暦をつくり、航路を決めたように、

今の私たちにとっても、ひとつの“視点”や“道標”にはなり得るのだと思います。占星術は科学ではありません。 しかし、だからといって無意味でもありません。



それは、人生を客観視するための象徴体系。  自分を理解するための言語のひとつ。  そして私は、その「視点」を日常に落とし込む道具として、天然石を扱っています。 天然石は運命を変えるものではありません。

けれど、身につけることで自分の内側に意識を向けやすくなる。

自分の癖や傾向に気づきやすくなる。 石は答えを与えるのではなく、

自分と向き合うための静かな時間をつくる存在です。 星が空の道標であるなら、

石は手のひらの中の道標。  自分の人生を幸せにするために。

そのきっかけとして、お使いいただけたら嬉しく思います。 ※ただ今、石のページを改装中です。

お申込み開始まで今しばらくお待ちください。



ありがとうございます。 #占星術 #天然石 #自己理解  

見え方、感じ方、未知の可能性とは

天然石を通じて土地を癒すこと、浄化することを含めてライトワークさせていただいています。これまで当方はその人をチャネリングして、こちらにお任せいただいたうえでブレスレットを作成するということを行ってまいりました。石の説明などを付けてお渡ししていましたが、これからは、どうしてもというご要望がある場合以外は意味をお伝えすることを行うことをやめます。なぜなら、その石の特性は、こちらで説明する言葉のニュアンスをそのまま受け取ることで、その人の可能性を狭めてしまう恐れがあること。石を持つことを入り口にして、持つ人の可能性が限りなく広がっていくことでもあるからです。当方のブレスレットのコンセプトは、一時的に良くなる、気持ちよくなるということではなく、今のその方の観測点を変える場を作ること。石はそれを促す装置として相棒として使っていただく。それはあなたに、何かを与えるのではなく、石を鏡にして「自分で自分を認める力」を取り戻してもらうこと。石の意味を伝えると、自分を評価しに行き、「ジャッジ」してしまうと、そこで止まってしまうかもしれない。私がほしのやしろで目指しているのは、誰でもオリジナルな自分の価値を自分で認めていくことができること。自分が自分であるために気持ちが良く、長期的により良く発展していくこと。石の種類によってさまざまな波動の違い、特性の違いなどあり、そこを効果や意味として捉える事ができます。しかし、ひとつとして同じ石はなく、似てはいても唯一無二。おおよそのエネルギーの特性などをチャネラーが読み取って言語化しているだけなのです。人間もそれと同じであり、同じ日本人であっても様々ですよね。掘り下げていくと深いですね。この地球上で「わかる」ものは、そのものの一部分でしかないのですね。一部分しか表現できないというふうにも取れると思います。数年前の話をします。ある神社にある、(見えない)扉を開くライトワークをさせていただいた時です。その時、一人で開けられる気がしなかったので、もうひと方のライトワーカーさんにお手伝いいただき、開けさせていただきました。長年閉じていたその扉は幾重にも扉が重なっていて、開くときに一気にすべて開いたのです。その時、小さな龍が飛び出てきたのです。青く澄んだ色の龍に見えました。しかし、もう一方のライトワーカーさんが言うには、白銀だったと。そこに封印されていた龍を解放できたようなのですが、同じ龍でも何故色が違うように見えているのだろうとリーブスの先生にお聞きしたところ、「あなたとその人の目的が違うから」というお答えでした。石も、人によって見え方が違うことがあります。ある時、それまで見えてなかったレコードキーパー(水晶の表面に浮き出る三角の成長点)がたくさん浮き出てきたので大興奮して人に見せたのですが、その人には見えなくてびっくりしたことがありました。(私のInstagramにレコードキーパーを紹介しています。見えると良いのだけど)これもリーブスの石に詳しい先生にお聞きしたところ、最初から「ある」そうだけれど、見える段階に来なければ「見えない」そうです。前にもリーディングのことを書いたと思いますが、その人によって読み取るところが違うんでしょうね。様々なことを言われます。さまざまなことを言われてしまう人は、それだけあなたの宇宙は奥深いのかもしれませんし、表現したいこともたくさんあるのだと思います。私自身が自分というものを模索する中で、様々な情報に左右されてきたこともありますし依存してきた過去があるので、自分を見付けるという過程で、揺らがない自分の片鱗を取り戻していきたい方にここを開いていきたいと思っています。感じ方、見え方、は人それぞれ。そこを研ぎ澄まして磨いていくと、独自の未知の可能性に繋がっていくのでしょう。