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神話はなぜ残ったのか

神話はなぜ残ったのか 〜スターシードと神々の苦悩の物語〜 時系列を超えて、今の時代も残っている神話ですが、万人に必要ないと考えられていますが、今に残っているのは、残る必要のあるものだからではないかという仮説を私は持っています。 子供の頃、私は神話を読むたびに不思議でした。 なぜ神様は喧嘩をするのだろう。 なぜ泣いたり怒ったりするのだろう。 神様なのだから、
もっと完璧な存在なのではないか。 神様と私たちとどう違うの?私にとって神話は人間の物語にしか思えなかったからです。 しかし、いい大人になり、
神話を別の視点から眺めるようになった時、

私はある可能性を感じるようになりました。  もしかすると神話は、スターシードたちが  「人間として生きる難しさ」

そのものを記録したものなのではないか、と。 神々は完璧ではなかった。なぜなら、スターシードが人として転生した姿の初期の記録だったから……そう考えると腑に落ちました。  日本神話には数多くの対立があります。 たとえば、

天照大御神と素戔嗚尊、 大国主の国譲り、海幸彦と山幸彦 、 神々は悩み、怒り、 傷付き、 迷います。 まるで私たち人間のようです。 もし神々が完全無欠な存在なら、

このような物語は必要なかったかもしれません。スターシードたちの今後待ち受ける苦難の打破方法を知らせたかったのではないでしょうか。神話には、
何度も何度も葛藤が描かれているからです。 私はそこに、

「魂が成長する過程」

が描かれているように感じるのです。ホツマツタヱは偽書だと言われていますが、数々のおまじないや生きるという心得が何度も繰り返されます。 ホツマツタヱには興味深い記述があります。 ハタレとの戦いの中で、

天照大神は

「殺めるなかれ」

と説く場面があります。 敵に見えても人である。

相手を滅ぼせば、
自らの魂も傷付く。

その考え方は現代にも通じます。 私たちは人生の中で、

誰かを敵にしたくなることがあります。 しかし本当に向き合うべきものは、

相手ではなく、

自分の中の怒りや恐れや悲しみなのかもしれません。 神話の戦いは、

外の戦争ではなく、

魂の内側で起こる葛藤のフラクタルなのではないでしょうか。 また、木花咲耶姫の話は有名です。夫への裏切りの疑いを晴らすために産屋へ火を放ちます。  私は、これは不思議な話というくくりではなく、当てつけや勇気の話しでもない。 そこにあるのは、自分自身への信頼と自信の話しだと思いました。 人は他人から信じてもらいたいと思います。 けれど本当に必要なのは、

まず自分が自分を信じること。 木花咲耶姫は、

その象徴なのかもしれません。 神話に登場する神々は、

もしかすると、

人間として生きることの難しさを知り、伝えていくことが必要だと思ったのではないでしょうか。孤独。

誤解。

葛藤。

使命。

選択。

それらを経験しながらも、

それでも前へ進む。 神話とは、

未来を生きる魂たちへの手紙なのかもしれません。必要ないなら、この長い歴史の中でどこかで淘汰され、全て途絶えてしまうでしょう。初期の形でないにせよ、形を変えて今に残っています。また、日本には神社もあります。時系列的なフラクタルで、神話はいまだ、色濃い紋様を刻んでいるのだと思います。 ホツマツタヱには、

肉食に関する記述があります。稲にイナゴが発生して収量が減ったのは、人が肉を食べたからだ、というような記述がありました。 もちろんそれをどう解釈するかは人それぞれです。 けれど私は、 肉食がだめだとか善悪の話ではなく、

バランスの話として読むことができます。肉を食べた、その分が代わりに虫に食べられるような。 地球は巨大な生命体です。 私たちの行動は、

地球全体の循環の中にあります。 食べること。

育てること。

奪うこと。

与えること。  すべてが循環の一部です。

植物は食べられても種を残します。  動物もまた命を繋ぎます。 重要なのは、 何が正しいかではなく、

どのような意識で関わるかなのかもしれません。 

地球の引力とスターシードの芽吹き

私はフラクタルという視点で世界を見るのが好きです。 大きなものと小さなもの。
宇宙と地球。 地球と人間。 それぞれは別々に存在しているようでいて、同じ法則を映し出しているように見えます。  私たちは今、地球の引力によってここに存在しています。 それは単なる物理的な重力だけではありません。 スピリットのレベルでもまた、私たちは地球に引き寄せられてきたのだと思うのです。 レムリアの時代。
ムーの時代。
アトランティスの時代。 そして現代。
長い時をかけて、私たちは地球で経験を重ねてきました。 喜びも。
悲しみも。
成功も。
失敗も。 そのすべてが、今という時代のための準備だったのかもしれません。  私は今、地球そのものが大きな変化の中にあると感じています。 アセンションという言葉を使う人もいるでしょう。 目覚めという人もいるでしょう。 表現は様々ですが、
地球そのものが、新しい在り方へ向かっているように見えるのです。 もしそれが本当なら、
地球に引き寄せられている私たちもまた、
新しい在り方へ向かうことになるのでしょう。 よく引き寄せという言葉があります。 けれど私は、
引き寄せるというより、
「エネルギー的に同じになる」
ことなのではないかと思っています。 地球が変化するなら、
私たちも変化する。 地球が純度を上げるなら、
私たちも純度を上げる。 その純度とは、
誰かになることではありません。 本来の自分を思い出すことです。 スターシードと呼ばれる人たちは、
特別な能力を得るために生まれてきたのではないと思います。 むしろ逆です。
元々持っているものを思い出すために生まれてきた。 私はそう感じています。 必要なものを外から獲得するのではなく、
すでに内側に存在しているものを開いていく。まるで種が芽吹くように。 太古の地球は、
外宇宙から飛来した隕石を受け入れながら進化したと言われています。 その視点で考えると、
今の時代は少し面白く見えてきます。 もしかすると、
かつて隕石が担った役割を、
今はスターシードたちが担っているのかもしれません。 外から何かを持ち込むためではなく、
地球の中に眠っている新しい可能性を呼び覚ますために。 私は若い頃からカオス理論が好きでした。 蝶が羽ばたくことで遠くの嵐が生まれる。
小さな変化が大きな変化を生む。 その考え方に強く惹かれていました。 今振り返ると、
それはアセンションの本質にも似ている気がします。 一人の覚醒。
一人の芽吹き。
一人の純化。 それは小さな出来事に見えて、
地球全体に影響を与える可能性を秘めています。 アセンションの本質がオセロゲームに見えたこともありました。一つひっくり返すと真ん中が全て変わる。 私は、人間の引力とは、
その人が持つ本来のアイデンティティだと思っています。 誰かの真似ではなく。
誰かの価値観でもなく。 魂が本当に望んでいる方向。 その人だけの誓願。
その人だけの美しさ。
それが引力になる。 だから今必要なのは、
新しい知識を集めることではなく、
本当の自分を思い出すことなのかもしれません。 レムリアから。
アトランティスから。
幾度もの人生から。
持ち越してきた種を思い出すこと。  芽吹きワークは、
能力を与えるためのワークではありません。 あなたの中に眠る種を見つけるためのワークです。 忘れてしまった本来の引力を思い出し、
地球と共鳴しながら、
自分という花を咲かせていくための時間です。 アセンションとは、
どこか別の場所へ行くことではなく、
自分自身へ還っていく旅なのだと私は感じています。 

自分軸は宇宙唯一の黄金螺旋

このブログにも何度も書いているんですが、まだ私が20代だったころ、実家で家族と暮らしているのに、なぜだかどうしようもない孤独感に襲われたことがありました。そして、世界を俯瞰して、私はなぜ日本という国に生まれたのか?を疑問に思うようになりました。こんなにちっぽけで有名でない私でも、何かできることがあるのか?ないのか?と悲観しながらも、でも、私の一部分を直すと、世界の一部分も良くなるのではないか?なんて希望的観測を考えていました。孤独感を感じているのに、世界を思うなんて、人間って面白いなと思います。今になってわかるのは、孤独感に襲われるとき、絶望するときは、新しい自分が生まれ始めている時とも言えるのではないかなと思います。新しい自分というか、経験を踏まえたうえで、純度の高い自分に立ち返っていく瞬間と言いますか。どんなに孤独に感じていても、世界と繋がっていなければ、今ここの自分はないわけで。孤独に感じるということは、世界と繋がっているということでもあるからなんですよね。自分だけが闇の中だと思っていても、人からはそう見えていないことも多々あるので、自分の在りようというものは、実に多次元的です。そんな中で自分独自の生き方、学び方、進み方、幸せの掴み方が、その人なりにあるのです。純度の高い自分というものは、本来、ぶれることがないのです。薔薇がヒマワリに育つことがないように、自分の育つ方向性のカギは、自分しか知らないし、本当は持っている。けれど、人間は器用なので、自分というものでない部分でも生きることができてしまう。それは、あまりにも周囲と違うと、怖くて本当の自分に戻ることができないということもあります。人間の脳の働きが、まさにそうですね。自分は薔薇なのか?それともヒマワリなのか?スターシードたちの持つ特性も千差万別であるし、ひとつではないと思います。スターシードは、数ある特性と、地球での経験値も踏まえて、どれだけ自分として生きることができるのか、それに尽きると思います。その生き方は、宇宙をも巻き込んでいくアセンションに繋がっていくのではないでしょうか。芽吹きワークの説明で、自分が芽吹くと自分の周りも豊かになっていくとは、結局ここに繋がっていくのだなと感じています。それは、緑の自然環境だけのことではなく、覚醒するにつれて、人間というものは、宇宙、地球と呼応した自然な生き方ができるようになっていくのだなと、みていて思っています。下の図は、私の頭の中をAIに描いてもらったものです。ちょっと違うのですが、笑、自分独自の芽吹きは、宇宙を豊かにする。もちろん、そうなると、自分自身も宇宙から豊かさを享受できるし、豊かに循環して、その渦は宇宙の端まで届くという。なかなか壮大なイメージが浮かんでいます。まずは自分が芽吹いて、そこから発信することのできる小さな黄金螺旋から、愛と調和による豊かさを広げていこうというのが、芽吹きワークの狙いであります。

自分という螺旋

フラクタルな視点を持ち始めると、非常に多角的に物事を捉えることができるようになります。私にとってそれは最大の癒しであり、安らぎになっています。すごく不確かなことに見えても、そこにはパターンがあり、ぐるぐる回っているだけであったりするように見えるからです。私は新しいものが好きなのですが、何か自分特有のパターンを抜け出したいという願望が昔からあったのかもしれません。ただ、新しいものを追い求める行為が必ずしもパターンを抜け出すことに繋がるわけでもなく、また、同じことをしていると思っていても、パターンから抜け出している時もあるので、この世は面白いと思っています。同じこと、例えば、僧侶が毎朝お経を読むことがパターンのようでいて、自分を超えていくことであったりするのと似ている気がします。それは、同じ場所と思えていていても、自分自身って自分で思うより深いからかもしれません。覚醒したり新しい発見となるものは、外から見付けるのではなく、自分の中から引き出すことだからかもしれません。自分の新たな側面を見たり聞いたりするために、人は動くのかもしれません。私自身も、本当の自分というものを突き詰めて、今日も生きるのだと思います。

本当の自分を見付けるということはどんなこと?

オリジナルな私になるとは、特別な能力を得ることでも、誰よりも優れることでもないと思っています。自分の中にある生命の衝動を感じ、それを基に動いていくことだと思っています。すると、いつの間にかオリジナルな花が咲いている、といったように。自分では花が咲いていることがわからないかもしれません。自然界を見ても、まったく同じ個体は存在しません。同じ種類の桜でも、、育つ場所や受ける風、土、水によって枝ぶりも花付きも大きく変わってくるからです。人間は、自分が何者かになろうとするところがあることから、「何にでもなれる自由さ(人間の特性)」と「変わらない核(本当の自分の誓願)」の両方を持っている。種を考えてみると、どんなに環境が違っても、桜の種からヒマワリにはならない。けれど、どんな桜になるかは決まってはいないのです。つまり、種は方向性を持っているけれど、完成形までは決めていない、ともいえるのです。この視点を人間に当てはめると、「本当の自分を見付ける」というのは、自分を固定化することではなく、自分の生命が向かいたがっている方向を知ることなのかもしれません。よく、アセンションを進めることは、生きている人間にしかできないと聞いていましたが、自分の生命が向かいたがっている方向を知り、行動していくことは、地球に生きてなければできないわけですね。自分の生命が自然と向かいたがっている方向を知りたいと思いませんか。私はずっと知りたいと思って生きてきた気がします。

広い宇宙の中で、地球に存在しているオリジナルな私になるには

地球がアセンションに目覚めた今、その流れに同調することが求められています。求められてると言っても、それは、外からというよりも、自分の中の中心にある光の声が、求めているのです。宇宙は広大で、私はちっぽけに思えることがあります。けれど、なぜ私は、この地球に生まれたのだろう。なぜ、この時代なのだろう。なぜ、日本人なんだろう。なぜ、私という存在なんだろう。20代のころ、この疑問を日々考えていました。スピリチュアルの世界を知り、「アセンション」という言葉を知りました。今日、今の今でこそ、それはどこか別の場所に行くことでもなく、「バージョンアップした本当の自分に還っていくこと」なのではないかと感じています。地球のシステムには普通に見てみても、不思議だなと思う力があります。種は芽吹き、やがて根を張り、花はそれぞれ違う色で咲き、あたら菜種を作る。桜は桜になり、薔薇は薔薇になる。ヒマワリはヒマワリになります。桜がヒマワリになろうとしないように、ヒマワリが薔薇になろうとしないように、自然は誰かと比較することなく、自分自身を生きているのです。人間はどうかというと、私たちはいつの間にか、誰かのようになろうとし、誰かと比べ、本当の自分が何だったのかわからなくなってしまうことがあります。けれど、本来、私たちもまた自然の一部です。宇宙が星を生み、地球が生命を育み、その流れの先に私たちは存在しています。そう考えると、私たちは偶然そこにいるのではなく、宇宙から地球へと続く大きな流れの中で生まれた存在とも言えるのかもしれません。つい、私たちは「何者かになろう」としてしまう傾向があります。しかし、その広大な宇宙の流れの中で、「何者かになる」必要はなく、まずは、「私という種が何を咲かせたがっているのか」を思い出すことが大切なのではないか、と私は思います。

私は好きな私を選ぶために

先日、猫ちゃんは?大丈夫ですか?と御声掛けいただきました。ありがとうございます、以前よりも元気になりました。猫ってヒーリングをすると、それ以上に愛情を返してくれるということも今回わかりました。以前よりも交流しやすくなったというか、通じるようになったと言いますか。ヒーリングって改めて素晴らしいなと思います。さて、前回、自分だけの人生はオリジナルな衣装をまとうランウェイという話をしました。結構これって深いなあと思うのです。日本は制服文化がありますね。学校や会社で制服があるのは世界的にみても珍しいことだと思います。世界で見ても、軍隊やスポーツのユニフォームぐらいですかね。衣服をそろえるというのは、何かこの精神的にも統一できるというか、ある種のまとまりというか、一丸となって何かをやり遂げるなどの目的があると思います。制服とは、何かをやり遂げるための衣服なのかもしれませんね。量子力学には、

「観測されるまで状態は確定していない」

という有名な考え方があります。 電子は観測されるまで、
粒なのか波なのか、
どこにあるのかさえ確率としてしか存在していません。  そして観測された瞬間に、
ひとつの状態として現れます。 私は、この考え方にどこか似たものを感じるのです。 私たちは成長する過程で、

親から見た自分

先生から見た自分

友人から見た自分

社会から求められる自分

様々な観測を受けながら生きています。  すると知らないうちに、

「私はこういう人だ」

という姿を引き受けるようになります。制服などで、私はこの学校の生徒だと認識し、本当の自分ではないもの、つまり一部分を自分として認識しています。 しかし本来の私たちは、
もっと多くの可能性を持っているのかもしれません。  人生というランウェイを歩くことは、

単に服を着替えることではなく、  「私は何者として存在するのか」  を観測し続けることなのではないでしょうか。 私は優しい人なのか。

私は挑戦する人なのか。

私は創造する人なのか。

私は誰かを癒す人なのか。  その問いを持ち続けるたびに、
私たちは自分という可能性の中から、
ひとつの姿を現実にしていくと思うのです。衣服は視覚で捉えて、確認する。本当の自分は、第3の眼で捉えて、確認する。だから私にとって、

オリジナルの衣装を着るとは、

流行に合わせることでも、
誰かの真似をすることでもありません。  真摯に自分の全てを観測すること。  そして、

「私はこれだ」

と選び続けることです。 人間として生きていくには、自分がこれだと思ったパーツを集めて、デザインして、縫い合わせていくように思えてなりません。 量子力学的に言えば、

無数の可能性として存在していた自分を、

自らの意識によって現実化していく作業とも言えるかもしれません。  芽吹きワークをさせていただいていて思うのですが、芽吹きとは、

新しい自分になることではなく、

もともと存在していた無数の可能性の中から、

「これが私だ」

という衣装を選び、

その姿を世界に表現し始めることではないかと感じています。 ただ、斬新なデザインのものを初めて着て歩くのは勇気がいるし、怖いことなんだなと思います。しかし、それはあなただけが本当に望んだ結果でもあり、過程でもあるんですよね。 それは、まだ誰も見たことのない、

あなただけのランウェイなのです。

あなたは今、誰の衣裳を着ていますか?

あるアイドルの衣裳展に行ったのです。チケットを取るのは大変でしたが、複数回行くことができたんですね。狭い空間にきらびやかなコンサート衣装が並び、ライブでは遠くからしか眺めることのできないものでしたが、間近で見ると、細部までとても手が込んでいるのがわかり、感激しました。その時、ふと思ったのです。本当の自分に覚醒していくって、きらびやかな衣装を着るのに似ているのではないか?と。人生もランウェイに少し似ているのかもしれません。ランウェイとは、本来はファッションショーでモデルが自分の衣裳を披露しながら歩くための道のこと。人は誰もが、生まれた瞬間から自分だけのランウェイを歩いています。幼いころは、「○○さんのこども」という衣装を着ています。成長するにつれて、周りと同じ衣装を着たり、誰かに似合うと言われた服を着たり、時には誰かの期待という重い衣装を着て、自分だけのランウェイを歩み進めているのです。それは決して無駄なことではないと思います。さまざまな与えられた衣装を着てみたからこそ、「これは私ではない」「これはどこか心地いい」「私はこうありたい」そんな感覚が少しずつ育っていくからです。そしてある時、誰かに選ばれた服ではなく、自分で選んだ服を身に付けて歩き始める。それが、自分という存在の芽吹きなのかもしれません。オリジナルな自分で仕立てた衣装は、他人からはわからない細部も凝った作りになっていて、その都度、作り直していける。言葉に「衣食住」というものがありますが、「食衣住」じゃないのを私は不思議に思っていたんです。本来の意味がどうだかわかりませんが、順序として逆じゃないかな?と。食べなければ生命活動が出来なくなるので、食が先じゃないかと。しかし、その衣装展で降りてきた感覚に、その言葉がしっくり来たんです。生きるために、一番は自分はどうあるかが、「衣」であるならば、納得です。私にとって「衣」は、本来の自分(すなわちスターシードボディまたはライトボディ)を肉体にまとう、というものがしっくり来たのです。  どんな自分として生きるのか。 何をまとい、
何を表現し、
どんな存在としてこの世界に立つのか。  それが定まることで、
食べるものも、
住む場所も、
人生そのものも変わっていくように思うからです。  一般的には「衣」と聞くと、
見た目や装飾、
あるいは何かを覆い隠すものを連想するかもしれません。 けれど私にとっての「衣」は少し違います。 それは本来の自分を隠すためのものではなく、
むしろ本来の自分を表現するためのもの。  魂が持つ固有の輝きや、
その人だけの周波数や在り方を、
この世界で表現するためにまとうものです。  だから芽吹きとは、

新しい誰かになることではなく、 自分の着たいと思ってコツコツ仕立てていた素晴らしい衣装を着て、自分だけのランウェイを颯爽と新たに歩き始めることなのかもしれないと、衣装展でしみじみと感じたのでした。