癒しが起こるのは、自分の中の闇を〇〇することができた時
神話について先日のブログにも書きましたが、だいぶ前のブログにも物語療法ということを書いたと思いますが、物語を読むことで癒しが起きるという話です。
神話の信ぴょう性を個々で問うつもりはありませんが、私の人生において、神話というものは生きる上で今でもいろいろなヒントを与えてくれています。
日本神話であり、最古の歴史書と呼ばれる古事記は、造化三神の話から始まることから、神聖幾何学の宇宙の始まりの話であるのを予測できることから宇宙の始まりから丁寧に書かれていると理解します。
また、私の知るギリシャ神話はテーテュースという川の神(龍?)のから始まることから、ガイア、つまり地球の創生から物語が始まります。
このあたりから、日本神話、日本、日本人というものが何なのかを掘り起こしていくことも楽しいのですが、またの機会に。
神話というのは、私たち人間の人知を超える存在としての話、または、私たちの考えが及ばないほど昔の話、どちらとも取ることができますが、いずれも人間の語り継いだ物語であり、いつの時代でも多くの人間たちの興味を引いた物語であったことは確かなのです。
日本神話もギリシャ神話も戦いの場面が多く描かれていますが、これが何を意味するのか。
私は子供のころから、神様なのに、日本神話ならイザナギやスサノオ、ギリシャならゼウスやヘラなどが、とても人間臭くて、神っぽくないと思ったものです。
それは、神が人間として生まれなおし、地上での葛藤、つまり、ディセンションの過程でもあり、アセンションのヒントも含まれた物語を描いたものでもあると解釈できます。
日本神話ではヤマタノオロチ、ギリシャ神話ではメデューサなどが「悪」としての代名詞で有名ですが、果たして本当に悪であったのか?というところが私としてはずっと気になるところではありました。
人間の視点から描かれているので、人間の解釈しやすい形での感情論が盛り込まれる…それはそのはずなのですが、私の周りを見ても、根っからの悪というものはそうそういないとも感じます。
私は蜘蛛が大の苦手ではありますが、彼らも「悪」ではない。
むしろ益虫とも言われていて、悪い働きをしていません。
しかし、私の家に出てきたら、良くないモノ、笑。手のひらサイズなんか、もってのほかです。
ただ、うちではクモは出ますが、ゴキちゃんが出ないことから、やっぱり手のひらサイズちゃんが食べてくれているのかなと思うと喜べはしないけれど複雑です。
もしかしたら世の中はみんなそうではないかなと思います。
例えばメデューサがお隣さんで越してきて、初めて顔を合わせて挨拶するかしないかのうちに自分が石に変わってしまったら。メデューサは石に変えてしまうという自分の能力に初めて気づく。
それは、メデューサは、悪?
メデューサにしてみれば、ただ、生きているだけなのです。
怖れという名のもとに、それを人間は排除してきた。
ただ、人間にしてみても、それはただ、自分が生きるための選択であったはずなのです。
神話はそれを戦いとして表現されてますが、私たちが送っている日常生活でも毎日のように起こっていると考えます。
ただ、相手が自然と発揮している能力を「普通ではない」と排除するか、「普通ではない、稀な能力だ!」と調和を取るか、今の時代は選べる時なのかなと思います。
今までは怖れから排除するということが多かったように思いますが、令和から、特にコロナ過からは調和というものについて考える人も増えたような気がします。
もれなく私もその一人ではあるかと思いますが、調和を取り持つというのは、外だけではなく、自分の中の闇をしっかり見据えたうえで、愛を持って行動できることだと理解します。
メデューサの話はかなり分かりやすく、
人間は自分の悪というものを見つめる時、見たくないあまり、避けたり、見るとショックで動き出すのに時間がかかってしまったりすることの比喩としても受け取れる話でもあります。
ギリシャ神話では、メデューサは海の神ゴルゴーン一家から輩出された初めての人間であり、海の支配者という名がありました。それがいつしか悪の代名詞となり、神話に色を添えることになったと私の持つ本には書かれています。
その比喩を借りるならば、私自身の人生の中のメデューサもかなり手ごわいものです。
過去世からの因縁もあり、全てを石に変えかねない。
自分の中のメデューサと対峙するとき、自分の中に在る能力に気付くときでもあるんですね。
それを石にするか、メデューサが何であるのかを理解することで、自分の中で闇を作っている光の部分に気付きます。
神話とは、哲学でもあり、宇宙の仕組みの曼陀羅をわかりやすく物語にしている部分もあり、また、人間ではない(というか、不変のエネルギー)の象徴であることから、変わらないモノとしての数学的な部分として受け取るとまた、面白みが増すのです。
人間としてのヘラクレス、ペルセウス、また、今回のメデューサは、「変わるもの」「変化する余地のあるもの」としてとらえて話を読むと、未知の可能性を感じてなりません。
そんな希望をもって今は神話を読むことができるようになったのも、このヒーリングサロンをたちあげ、様々なクライアント様との出会いから、学ばせていただいたことでもあります。
はじめはどん底な気分でこちらにいらっしゃるのですが、みるみる力を取り戻されていく姿に、私も元気にしてもらいました。
私の経験からも、この世の中に生きて関わっていくということは、とてつもない未知の可能性、希望があるのだということを神話は教えてくれていると私は思っています。
軌跡というものは、まさに奇跡を起こすためのフィールドであり、それは、人間として生きてきた経験値がすべて希望に繋がる鍵だということを、多くの方に体験していただくお手伝いをこれからもしていきたいと思います。
自分の人生は自分が変えていく!そんな方のサロン、ほしのやしろです。
いつもありがとうございます。
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