願いを叶えるということは、自分と向き合うこと1
私は研究者でもなければ、専門家でもありません。
だから、ものごとを語るときは、私が生きてきた中で感じたこと、考えたことしかお話しできません。
でも、それはきっと、誰しもが同じではないでしょうか。
人は、自分の体験からしか、世界を捉えることはできないのだと思います。
たとえば、私は宇宙から地球を見たことがありません。
それでも、地球は丸いと、疑うことなく信じています。
なぜなら、そう聞いたから。誰かがそう言っていたから。 それが今は“常識”だからです。
でもふと、こう思うのです。
それが真実かどうかよりも、私が「地球は丸い」と信じているというその自分自身と、ちゃんと向き合えているだろうか。
誰かが言っていたから、でもいいですが、それを信じた自分が一番重要な部分です。
自分を信じるというのは、自分に責任を持つということ。
責任という言葉は、少し重く聞こえるかもしれません。
でもそれは、自分が自分の人生を「喜び」で選ぶために、とても大切な感覚だと思うのです。
だって、自分の人生は、誰かの人生の“二番煎じ”ではないから。
私たちは、自分のことを案外よく見えていないものです。
だからこそ、迷ったときや、何かを発言したり、行動に移すときは
「誰かがこう言っていたから」ではなく、
「誰かがこう言っていたことに、私の中のこの部分が共鳴した」
そうやって、自分というフィールドにいったん落とし込み、色や音を確認していくことが大切なのだと思います。
私という人生の選択は、実のところ、ずっと妥協の連続でした。
たとえば、中学受験は母に勧められるまま。
大学進学も、「弟を大学に行かせたいから、あなたは就職してほしい」と言われ、私は自分でなんとか通える短大を選びました。
本当は、4年制大学に行きたかったのに。
早く家を出たくて、結婚したのも同じ理由でした。
こうして並べてみると、私はずっと「母のせい」で自分の人生を選べなかったのだと、どこかで思い込んでいたのです。
でも今なら、はっきりと言えます。 あれは、「その場しのぎの望み」であって、「心からの願い」ではなかったのだと。
自分の人生を人のせいにすることで、私は自分と向き合うことから逃げていたんです。
本当に願っていたことに目を向けるのが、怖かったのかもしれません。
けれど、自分の“喜び”を基準に選択するようになると、不思議と流れが変わっていきました。
「次はこれをしてみよう」 「失敗したけど、じゃあ次はこうしてみようかな」
そんなふうに、失敗すらも土台になってくれるようになったんです。
何よりも、人のせいにしないので、後腐れがありません。
いつまでも、“今の私の願い”で生きていける。
だから、毎日が新鮮で、どこか“ぴちぴち”とした生命力を感じるのです。
願いを叶えていくというのは、実はとてもシンプルなこと。
「今ここ」の自分の感覚に正直に、選び、進んでいくだけ。
それは、誰の人生でもない「私の人生」を生きるための、唯一の道なのだと思います。
続きます。
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