どれを選んでもいいですか?と問い続けた私
「どれを選んでも良いですか?」と問い続けた私
私は子どもの頃から、少し変わったところがありました。
人の言葉の奥にあるものが気になるのです。 言っていることと、本当に思っていること。
表面に見えていることと、その奥にある本音。
そういったものが、なぜか気になって仕方がありませんでした。
幼稚園の頃の忘れられない出来事があります。
工作の時間、先生はたくさんの折り紙を前にして、 「好きなものを選んでいいよ」 と言いました。 でも私は確認したくなりました。
「どれを選んでも良いですか?」
先生は答えませんでした。
聞こえなかったのかと思い、もう一度聞きました。
それでも答えません。
私は何度も聞きました。 やがて私は泣きながら聞いていました。
そして先生は話を聞いていなかったの?と怒り、私をトイレに閉じ込めたのです。
私は泣きながらドアを叩いていました。
大人になった今、その出来事を振り返ると、不思議なことに気付きます。
私は先生を困らせたかったわけではありませんでした。
ただ、本当にそうなのか知りたかった。
確認したかった。 安心したかった。
「どれでもいいよ」
その一言が欲しかっただけだったのです。
そして人生を通して学んだことがあります。
人は必ずしも、 言葉と気持ちと現実が一致しているわけではない。
「好きにしていいよ」 と言いながら、本当はそう思っていないこともある。
「大丈夫だよ」 と言いながら、不安を抱えていることもある。
だから私は子供のころは直感的に、その奥にあるものを見ようとしていたのかもしれません。
以前、メールで行うセッションをしていたことがあります。
すると、とても興味深いことが起きました。
同じ言葉を届けても、 ある人は世界が広がるのです。
「ああ、そういうことだったのか」 「やっと意味が分かった」 と、視界が開いていく。
ところが別の人は、 世界が狭まってしまう。
苦しくなったり、 反発したくなったり、 時には怒りが湧くこともあったようです。
当時は私自身も戸惑いました。
同じ言葉なのに、なぜこんなにも違うのだろう、と。
もちろん、私の言葉選びにも課題はあったと思います。
もっと伝わる表現があったかもしれません。
もっと優しい伝え方もあったでしょう。
けれど今は、もう少し違うことが見えています。
それは、 人は準備のできていない部分に光が当たると、痛みを感じることがある ということです。
傷がある場所に光が当たる。
まだ見たくない部分が照らされる。
まだ向き合う準備が整っていないテーマが浮かび上がる。
すると、人はその光そのものを拒絶したくなることがあります。
それは悪いことではありません。 むしろ自然なことです。
私自身も、人生の中で何度もそういう経験をしてきました。
今なら受け取れることでも、 数年前の私には受け取れなかっただろうと思うことがあります。
気付きにはタイミングがあります。
成長にも順番があります。
だから今の私は、 誰かに答えを与えたいとは思っていません。
真実を押し付けたいわけでもありません。
ただ、その人の中にある本来の答えが芽吹くお手伝いをしたいのです。
そのために、最近は、より、言葉だけでは届かない領域にも目を向けています。
言葉は素晴らしいものです。
けれど同時に、人それぞれの経験や価値観によって解釈が変わります。
それがわかってきたからこそ、見えない部分が見えてきた部分もあります。
言葉だけでは、時に誤解も生まれます。
一方で、言葉を超えた感覚やエネルギーの領域では、 頭で理解する前に、 深い部分が自然と思い出すことがあります。
無理に納得させられるのではなく、 自分自身の内側から答えが立ち上がってくる。
そんな感覚です。
振り返ってみれば、 私は昔から人の核心を突きたかったわけではありませんでした。
ただ、その人の奥にある本質やパターンが見えやすかったのだと思います。
そして、それを言葉で伝えようとしてきました。
けれど今は分かります。
大切なのは核心を伝えることではなく、 その人が自分自身のタイミングで、その真実に出会えることなのだと。
幼い日の私は、 「どれを選んでも良いですか?」 と何度も聞いていました。
そして今、私が届けたいものは、 誰かの答えではありません。
その人自身が、 「私はこれを選ぶ」 と、自分の感覚を信じられるようになること。
そのための安心できる場でありたいと思っています。
人にはそれぞれのペースがあり、 それぞれの準備があります。
だからこそ私は、その人の魂が本当に受け取る準備のできた真実へと、そっと光を当てるお手伝いをしていきたいのです。
ほしのやしろTOMOKO 2026年6月
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