私は上野での古代メキシコ展へ行ってきました。
古代と言っても比較的新しいこの文明は、生と死両方を崇め、また、恐れたものであるように感じました。
生贄文化として有名ではありますが、幸せのためには何かを代償として支払わなくてはいけないということに捉われていたように感じます。
現地の人は、生命力溢れるビビットな色を生きている色と呼んでいました。
生きると死ぬをセットというよりかは分けていることがわかりました。
また、戦士という言葉が多く使われ、戦士の階級が高いことを示しています。生きることは戦うことでもあったようですし、日本の武士と通ずるものもある気がします。
また、この文明は他の文明にもあるように、地底世界は死の世界とも呼ばれて恐れられてきました。
この死のディスクという石碑は、死んだ太陽を表していると言われています。
夜は太陽は地底世界に行くと解釈され、死の国と言う意味があったのかなと思います。
少し話しがそれますと、現代となった今は、太陽は死んではおらず、地球の裏側を照らしているのは当たり前です。
見えない、知らない、わからないというのは、私たちにとって恐怖でしかないのですよね。
自分にとっての死は、誰かの生であるというような、わかっていなくとも何となく感じて、この生贄文化、何かを代償として支払うような文化として発展していったのかもしれません。
また、神からの啓示など、当時の地球の低い波動的にも、別の意味で伝わったのかもしれないと思いました。
その数ある展示品の中で私が気に入ったのは、これ。
セイバの土器です。
セイバという木が描かれた土器。
セイバは今でもメキシコでは神聖な樹木として扱われているそうです。
日本で言う楠のような感じでしょうか。
樹木というのは私たち人間の生きる手本のようなものだと私は思っていて、ある意味、種だけではなく、挿し木などで増えることも出来ることから、永遠さも感じずにはいられません。
このセイバの木は生も死も知った上での永遠性を表現しています。
私たちも本当は生も死も知った上で地上に存在していると私は感じています。
お読みになっている方はどう感じるでしょうか。
死は生がある今だから垣間見えてくるものであり、また、生きている間は見えないというパラドックス的なものです。
私たちは死んでいる時の記憶はないので、生まれてきたいと思って生まれてきたのかは忘れてしまっています。
新生レムリア神殿では、今まで何となく生きている人や、毎日を生活するためだけに生きているという人が、
叡智を受け取ることにより、1番輝いていた時代の自分を思い出したり、
過去につまづいていたことを思い出して、同じことを繰り返すことなく、新しい自分と向き合っていけるようになることを意図して行います。
どうぞ、この時期だからこその月2回開催になっています。奮ってご参加くださいませ。
お読みいただきありがとうございます。
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