頼朝と私

今まで幾度も鎌倉に来ていたものの、一昨日、生まれて初めて頼朝の墓へ行きました。

暑すぎる中でも、鶴岡八幡宮はかなりの賑わいでしたが、頼朝の墓には誰もいず。

楠さんと触れ合い、少し長居したにも関わらず、誰も来ませんでした。

山の中、ひっそりとした佇まいのそこは、小綺麗にお花も供えてあり、お参りをした私は、なぜか安堵感に包まれました。 
なんで安堵感かなーと、その時はわかりませんでしたが。

歴史は詳しくないけれど、頼朝は激しい気性の持ち主という印象があります。
一国は築いたものの、周りの人を信じられずに残虐な事を行なっていた。

それでも、今の日本人で頼朝を知らない人っていないよね。
頼朝という人物の人生は、後世の人への何かのメッセージなんでしょうね。

しかし、頼朝は信心深く、神社仏閣には敬意を表し、陰陽道も実践していた。

私が感じたことは、いくら神社仏閣に敬意を表しても、陰陽道を研究しても、人生は自分の心次第。
陰陽の技を愛で使わなかったので、何らかで返ってきて亡くなったのだと感じています。

当時の激動の時代を思い、

そんなツライ時代は終わったのだな、と先ほどふと思いました。

誰かを蹴落として1番になる人生を生きるのではなく、

自分の中の1番を探す人生に。

でも、現代では
よく取り上げられる、SNSのいいね問題で、
人より幸せでありたいとか、人より優れていたいとか、逆に、私は不幸せだとか、劣等感の塊だ〜とか思っちゃうことがよく取り上げられるけど。


でも、究極、そんなことで、自分の人生、測れるの?って話し。

いいねもらえると嬉しいし、
人に必要とされるって、すごい強みになるし心強い。

でも、それ以上に、本気で自分で自分を必要とする時代に突入したのだと思います。

いいねをもらう人生じゃなく、自分自身に、いいね!って言ってあげれる感じ?←ぼっち感満載だけど笑

なんか、過去の激動の時代があったからこそ、今の自分があるのかなぁと思いました。

中学ぐらいの頃は、自分って親に愛されてないなーってふてくされて、本気で死んでやる!と思ったこともありました。

でも、それって完全に当てつけ。
甘えていたんですよね。
愛とかって、測るもんじゃないしね。

拭っても拭えないと思える汚点でも、光に変えて行ける時だよー頼朝!
と、なんだか強く思いました。