本当はわかっている
昨日の会で改めて思ったのは、私を含めてみんな、どこかで全てをわかっているということ。
ただ、人間という着ぐるみが案外動きにくいらしいという感じかなぁ。←他人事のようですが、自分も含まれています。
でも、どうせなら人間レベルで明確にわかりたいぞ。とも思うわけです。
人間レベルで全てわかるなら、道も選びやすいかなと思う反面、逆に、道がたくさんありすぎて迷うかなーと思ったり。
でも、選べる道がたくさんあるって楽しいかも。
でも魂レベルではわかってる事でも人間レベルでは理解できない事ばかり。
魂レベルで察知する事って、確証がないですからね。
だから、瞑想とかするのでしょうけれど。
でも、絶対という明確な答えはなくて、自分を信じるしかないのですが。
信じられないと、
やっぱりそうだったかぁと後日談になってしまうわけで。
というのも、私は人や動物の死期が多少わかるようで。
過去世は幾度かシャーマンだったようなので、自然な事らしいですが。
人間レベルで確信した時にはかなり動揺して、人間という着ぐるみは、なんて不自由なんだろうとも思いましたし、中途半端になんでもわかってしまう自分はなんなんだろうと。
わかるという事は、それを自分の中でいかに消化するかが問われているのだと思いますが。
人間レベルでは死って悲しいし、苦しい。
もう会えないーって思うし。
けれど、人間から離れた部分では、あー、自由に帰って行ったんだね〜と変にホッとしている。
察知したそれをどう生かすかという事でこの1カ月は悩んでいました。
結局のところ、死もそれぞれの愛の方向性で。最高の愛のイベントで。
人間は人間レベルで、その死をどう愛で受け入れるか、が問われているのだと思います。
この世に生を受けた瞬間から愛で溢れていて、死ぬ時まで愛で溢れている。
そう考えると人間という着ぐるみも悪くないなとも思いますが。
鳥のさえずりや猫の鳴き声。
木々のざわめきや雨音。
地球に生まれたいなと思っても生まれてこれない人?もたくさんいる中で、今、自分が、地球で生きていることに感謝だなー、とも思うのです。
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